進藤守の心の中 その① 〜ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番〜

山吹薫の昔の話

季節は巡る。それを感じるのはいつだって病院を出た時だなと進藤守はそう思う。

店へと続くまばらな街灯を歩きながら今日の話を思い出す。

かつての喧騒に溢れた日々の音、重厚に幾重にも重なるサイレンの音、それに加わるモニターのアラームや、走り回るスタッフの足音。

それは静かにそして確かな音で心の中に響く。

街路樹の間を走る救急車とすれ違う度にそんなことを考えてしまう。

この瞬間だけは気持ちが大きく揺らぐような気がする。

それは過ぎ去ってしまった過去の、昔々のお話であるのだから。

かつてはそうでは無かったのだけど、ここ最近では嫌にその音が心の中に蘇る。

薫が百合ちゃんに昔の話をしたと言った時は正直に驚いた。

あの沢尻にさえ、酒の席で断片的に話すだけであったのだから。

なんの心境の変化かは分からない。だけどもきっとそれは薫にとって良い事なのだろうとも思う。

記憶の断片は時に酷く鋭利だからそれに触れると酷く痛む。

時にはサイレンの色の様に赤く紅くそれが血の様に滲み出てくるのを感じる。

多分、薫と自分の記憶の断片はそういうものだろうし、お互いに話す事もあまり無かった。

だけどもその記憶の表面はいつだって水面を撫でるように艶やかだ。

その水面を僅かでも覗いてみると、あのリハビリ室での喧騒が今でも水面に波紋を呼ぶ。

だけどもきっとそれを自分から語る事は無いのだろうなとも思う。

その喧騒に満ちたあの日々は自分の中に留めて置きたい。

そう思うからだ。

心で想うのと口に出すのとでは、それらは大きく形を変えてしまう。

そしてそれは自分で感じるのと人が感じるのとでは大きく違う。

そういうものだのだから。

だから自分は語るのが苦手になったのかもしれない。

言葉にすると溶けてしまうようなあの眩しい記憶の中を、気持ちがまだ漂っているのだから。

薫には何も言えないな。とも苦笑する。その苦笑もまた降り始めた夜の帳に消えていく。

今頃みんな何をしているのかね。と進藤は姿を現し始めた夜空を見上げる。

最後には薫と二人だけだった。正確に言えばあの頃のメンバーは二人だけになっていた。

最後の日だけは薫と何も話さずに呑んだのを覚えている。

あの賑やかな日々に、あの主任が口にした火酒を。

ゆっくりと・・・静かに。

まぁこの業界は広いようで実は狭いのだからいつか会えるだろう。

その時に昔話を色褪せる事なく、昔のままの様に語れるように。

しばらくは語るのを苦手でいよう。

少なくともその事に関しては。

見え始めたいつもの店への入り口を見て、かつての喧騒が耳の奥で流れるのを聞きながら、進藤はいつもの様にドアを開いた。

【これまでのあらすじ】

『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。

【これまでの話 その①】

【これまでの話 その② 〜山吹薫の昔の話編〜】

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